[第3分科会コーディネータ解説]
なぜ、自然の永続性を問うか?



本谷 勲



 今回の研究交流集会の他の7つの分科会が、経済、国際関係、科学技術、制度、ライフスタイル、教育のように、いずれも在るべきサステイナブル・ソサエティが成立するための問題点を、いわば社会内部の条件として検討していたのに対し、第3分科会は「自然との共存の原則をさぐる」として、サステイナブル・ソサエティにしてもサステイナブル・ディベロップメントにしても、社会の外である自然のサステイナビリティがなければ実現しないことを強調しようとした。自然のサステイナビリティは当然の前提であるとして検討の対象から外すことに大きな危惧を感じていたからである。


 分科会を終えてみて、報告や質疑・討論など分科会の内容は非常に充実していたが、しかし、それとは別に、私の問題意識に対する結果は、十分納得のいくものとはならなかった、と思う。それは企画や運営の不十分さなどという技術的な問題ではなく、私自身の問題意識の深さが足りないことの結果であったと思っている。「永続可能な社会を追求する時に自然の永続性は自明である」という認識はそう簡単には疑うことが出来ないものであることを、改めて痛感するのである。「世界の熱帯林が21世紀中に消失する」と言われても、「フロンでオゾン層が破壊され、地表に到達する紫外線量が増大する」と言われても、いくつかの独立した警報では「自然の永続性」、「自然の絶対性」の信念は影響を受けないのだろうか? このような感想をめぐって第3分科会で意図したことを反芻してみたい。


 近ごろ「自然との共生」、「自然との共存」という言葉を頻繁に聞くようになった。第3分科会のネイミングにもそれがある。私は一貫して「自然との共生」には批判を加えてきた。この言葉の使用者には、だいたいにおいて生態学における共生の意味の実態をご存じない人が多い。生態学において共生とは「A、B2種の生物が互いに相手を不可欠とする生活の状況」を指していう用語である。人間は自然を不可欠とするが、自然ははたして人間を不可欠とする(筆者はそう思いたいが)か、疑問の声も少なくない。「人間は自然の失敗作だ」というような指摘がそれに当るだろう。だから、人間と自然の関係をいくら将来の在り方とはいえ、共生などとは言えない、というのが筆者の主張である。


 これに対して、「偏害共生(AがBから一方的に害を受け、Bは何でもない)」という言葉があるではないか、という反論があるかもしれない。偏害共生という用語は明らかに生態学者の誤りであって、実体のない現象にネイミングを逸(はや)ったものとしか思えない。すなわち、「Aに被害は見られるが、Aは被害だけで何もメリットがないのか、Bははたして何でもないのか」が明確でないという曖昧な状況に対してつけられた名称で、実態を明白にすべきところをネイミングで甘んじている生態学者の怠慢の言というべきだろう。もしAが被害だけだったらむしろ寄生なのである。だから、こんな用語は今の議論には無用でしかない。


 生態学ではそうでも、共生は読んで字のごとく「共に生きる」なのだから、生態学などに遠慮せず、いい言葉にはいい概念を盛るべきだ、という人もいる。他の学問領域を無視した失礼な言い方だと思うが、それならばむしろ共存と言うべきではないかと、筆者などは思うが、共存は第2次大戦における日本のアジア侵略のスローガンである「共存共栄」ないし「八鉱一宇」の忌わしいイメージがあるから駄目らしいのである。


 筆者は生態学の用語にこだわるものであるから、人間と自然の関係の在るべき姿を一応「共存」としておくことにする。ニュアンスを平たく言えば、共生は相手を不可欠として生きる、共存は折り合って生きる、である。人間同士の関係で言えば、共生は恋人・新婚のカップル、共存は熟年の夫婦あるいは職場の人間関係と言ったらいいだろう。


 生態学的に考えると、しかし、事はそう簡単ではない。この夏は特に暑かった。夕方、涼みに庭にでも出ようなら、たちまち蚊がたかってくる。筆者などはすばやく叩いて手のひらに死骸でも見付けようものなら、ニヤリとする。取り逃がそうものなら悔しがる。蚊を叩くなどはおそらく人間の本性とも言えないだろうか。


 ところが、蚊を手のひらで叩き殺すなどは人間だけの行為である。ウマもウシもイヌも尻尾を振るか、皮膚を痙攣させて追い払うか、追い払いが及ばなくて蚊にくわれるのを耐えるだけである。まさに共存の折り合う姿であろう。共存などと言うのは易い。何がそれに当るのかについて私達の認識はきわめて自然の論理から遠い事を十分自覚することが大切というものであろう。ことは自然との関係なのだから。


 野生動物に対する私達の態度についてもう少し考えてみよう。野生動物の保護というとパンダやコアラだけが騒がれるこの国の社会だからである。野生動物への正しい対応は「知らん顔をしてさりげなく見る」というのが保護論者の間の常識である。だからホェール・ウォッチングで船上で歓声をあげるのは、保護論者からすればもってのほかの行為である。そこには野生動物にストレスを起こさせないというマナーもある。したがって、野生動物に餌を与えるなどは、雪が深くて食物が無いというような緊急時を除いては、してはならないことになっている。一昨年のアメリカ、イエローストーン国立公園の大規模な山火事において、公園の管理者が初期のうち、消火をしなかったことがいろいろの論議を呼んだことがあったが、公園管理者の処置には「自然に対して干渉してはならない」という論理が通っていたのである。


 ところで、冬に庭やベランダに訪れる野鳥にエサを与えることが盛んになっている。冬の池や川のほとりでパンクズなどを投げている人も少なくない。これらは自然保護の論理に反する行為なのだろうか? 残念ながらそうである、と言うしかない。自然保護論者に言わせると、動物にエサを与える行為は動物愛護なのであって、動物保護と取り違えてはならない、のである。野生動物に今日エサを与えても明日は食物がないかもしれない。明日も明後日もエサを与え続けるのでなければ、動物の空腹にとっては何の意味もない。人間の側のその時の気紛れでしかないではないか、というわけである。そればかりではない餌付された野猿に見られるように、食物を与えられて生きる動物はもはや野生ではない、という現実がある。野生動物を家畜化してはならないのである。このように自然保護というのは見方によってはたいへんに窮屈な行為なのである。感情ではなくて理性的な行動である。


 ではイヌやハトやコイにエサを与えるように野生動物に食物を与える行為は、自然保護の進展を目指す時代にあっては許されない行為だろうか? 筆者の個人的な見解によれは自然保護という立場にあっては許されないが、「自然との付き合いを学ぶ」段階に限っては許される行為ではないかと思うのである。


 つい先頃までは野生の動植物を忘れていた日本の社会であった。主として途上国からの野生動植物の輸入が国民一人当たりの金額で世界一であるのに、そのことを自覚していないのが日本の社会なのである。かつてはゾウゲ、ベッコウ、今もワニ・トカゲ皮、麝香、熱帯魚、ラン、サボテンなど、例を挙げれば納得されるだろうが、日本は経済力にものをいわせて多額の野生生物を輸入している。


 このように野生の動植物を忘れている社会で、自然保護を進めようとするには、人間の側の動植物愛護の心を呼び起こすことが大切ではないだろうか。だから、冬の小鳥にエサをやるのは、自然保護ではないが、自然との付き合いを取り戻す人間の側の教育の一階梯として、これを拒否しないでおこう。山に登り、釣りに興ずるのは自然保護に逆行するといって咎めるにはあたらないだろう。すべてはそこを通過して自然に向き合う人間の姿勢が養われるのだ。ただし、動物愛護の心は大事にしながら、行為はいつまでもその段階に留まっていてはならないだろう。冬の野鳥にエサを与えながらも、人間のエサに頼らずにすむような環境を町の中に取り戻すような考えと行動に進まなければなるまい。


 私達の状況をつぶさに分析して状況を変えながら、本当にサステイナブルなソサエティを築く論理を構築したいと考えている。