[第6分科会 基調報告]
永続可能な社会でのライフスタイル
Life Style in Sustainable Society
青山 政利
(Masatoshi Aoyama)
1.永続可能型社会の定義
人類の誕生以来、長い時間の努力によって科学が発達し、技術を発展させ、社会を「発達」させてきた。
その技術の「発展」が今日の地球環境の危機を招いてきたことは間違いなかろう。それは科学・技術・社会の未発達に原因がある。決して科学や技術が悪ではない。
科学・技術の発達は、今日の環境の危機を指摘することもできたし、今後、社会を発達させる期待を抱かせる物となっている。
あくまでも今日の状態は、人類社会を発展させるための一つのステップである。その発展した社会は、非永続的な社会でなく、永続可能な社会でなければならない。その方向に向けて科学も社会も努力しなければならないことは明白であろう。
永続可能型社会という時に、どのレベルでの永続性なのか、同じ言葉によっても、各人まちまちであるように見受けられることがある。
ここでは、人為的な働きかけによるのでなく、太陽系および地球が自然界の寿命として滅びるまで人類が生き延びられるような社会を指すとしよう。
文字どおり永遠にである。少なくとも科学は、この可能性を精いっぱい追求するべきである。これが科学の真の役割であるはずである。
2.永続可能型社会の基本的前提
永続可能な社会を作り上げるために必要なことの第1に平和があげられる。他の何者からも自分の命と健康が脅かされないような社会を築き上げることが何よりも重要であり、この保証なくしては、決して永続可能な社会を作り上げることはできない。
いかに戦争状態が環境を破壊するかは過年の湾岸戦争を見れば明らかであるし、そのような状態に至らなくても、日々の演習を含んだ軍事行動による環境破壊は大きなものである。特に今日のような巨大化した武器が使用されれば、たちどころに社会は破壊されてしまい、人類は完全に消滅するであろう。
第2に必要なことは、基本的人権の保証である。互いに他を侵さず、それぞれの個性を尊重しつつ、生きていくことが必要である。
これは同世代の人々に対してはもちろんのこと将来生活するであろう人々の権利も含めてのことである。これが永続可能型社会の特徴でもあろう。
平和な社会が構築され、個々人の健康な生活を保障しようとする意志が固まることがきわめて重要なことである。この二つを実現するために、社会も、個人も、科学も技術もすべてのベクトルを向けなければならない。
また、すべての人々が健康で文化的に生きていくための、最低限の条件としてあげられることが、環境、食糧、エネルギーの3者であろう。この3つを確保することが永続可能な社会を構築するための不可欠の条件である。
3.今日、我々が抱える諸問題
3−1 人口の増加
人類は過去にも人口の急増期を迎えている。火(エネルギー)の利用を始めた時と、農業という技術を手にした時であり、3回目が今日の工業というエネルギー大量使用の技術を手にした時である。
過去の二回の急増期においては、あくまでも人間は環境の中の存在であり、その中で生きていた。資源を再生可能な形で使い、環境を保全しながら生活していた。
今回の急増期の特徴は、過去二回と大きく異なり、環境破壊型、再生不能型の資源の使い方をしている、工業型社会を形成していることであろう。決して永続可能とは言えない人口増加である。
3−2 エネルギーと資源
人口の増加と工業型社会への転換に伴い、人類が使用するエネルギーと資源は増大の一途をたどった。
産業革命以後化石燃料が大量に使用され、今日の環境問題の原因の一つとなっている。北の諸国が四分の三を使用し、残りを四分の三の人口が使用しているのが現状である。二酸化炭素等による環境破壊を北の諸国が引き起こしている。
今後南の諸国においてのエネルギー使用量の増大は確実なことであり、先進諸国が現在の体制を変えずにエネルギーを使用し続ければ、環境破壊は加速度的に進むことになろうし、限りのあるエネルギー源ではいずれまかないきれないことになろう。すでに大量に使用している北の諸国に、南の諸国のエネルギー使用に対する要求を押さえつける権利はない。とすればエネルギーの使い方、エネルギー源の見直しが必要となる。
太陽エネルギーも決して現在使用しているエネルギー量よりも多くを保証するものではない。それどころか、永続性を全く無視して浪費している現在の使用量をもまかないきれない可能性の方が高い。
とすれば、エネルギーの使い方を考え直さなければならない。
3−3 大量生産・大量消費の工業型社会
大量のエネルギーと資源を使うことによって作り上げられているのが、今日の大量生産・大量消費の工業社会である。
また今日の社会の特徴として、人口の都市集中が進められていることがあげられる。それによるエネルギー使用量の増大、環境破壊の進行は顕著である。
都市周辺への人口集中に伴い、都市近郊の環境破壊が進み、また農村地帯ではその跳ね返りとして過疎化が進み、太陽エネルギーを固定し、利用できる形態にするためにきわめて重要な農林業が、次第に主要な座から遠のいてしまった。
わが国においては、政府の農業政策の基本的誤りは、今日の米問題に端的に現れているし、食糧の自給率の急速な低下にも見られる。
資本主義経済体制の特徴でもあろうが、世の中はすべて利潤の追求を目指して活動を進めている。そのためには大量に消費させなければならないし、大量に生産しなければならない。それに伴い多くの問題が派生してきている。
特に第二次世界大戦後の急速な工業化は、大きな環境破壊をもたらした。その中でも1970年代における日本のいわゆる高度成長期においての環境破壊は、公害として社会的に大きな問題となった。この時期に「消費は美徳」と言われ、大量生産・大量消費のライフスタイルが形作られ、それに伴い、輸送量の増大、自動車の急増、廃棄物の増大など大きな問題が次々と現れている。
3−4 経済体制の課題
確かに戦後の復興期から高度成長期までは、物にあふれたアメリカ型社会・生活が我々の世代のあこがれであった面もある。物質的豊かさ、あるいは企業の手によってつくられた欲望を追求してきたのが今日の我々の姿であろう。
資本主義社会の特徴か、あるいは工業化された社会の業なのか、現在の社会は経済成長を重視し、GNP成長率を維持することに躍起となっている。GNP成長率プラスを永遠に持続することは決してできない。
近い将来、ゼロ成長、あるいはマイナス成長の時期が来るはずである。となれば今日言う不況となる。はたして不況は悪なのか。ゼロ成長、あるいはマイナス成長であっても営み得る経済体制をつくっていかなければならないはずである。
そのような社会における政府と企業の役割および責任は、今日のそれとは大きく異なった物となろう。
その中で生活し、活動する個人の意識、役割も、より一層重要なものとなろう。
4.めざすべき方向への検討課題
そのための検討課題は多く、かなり困難な面もあるが、それを成し遂げなければ、永続可能な社会を築き上げることはできないであろう。
我々はまず、大量生産、大量消費の形態から抜け出すことが必要であろう。再生よりも再利用、再利用よりも使用量の抑制が必要となろう。これは現在の大量消費によって保証されている経済体制を、根本から覆す物である。企業は物を売らないことを考えなければいけないようなことになる。利潤を追求するための企業でなく、人々の生活に必要な物を生産するための企業になる必要がある。
必要な物を必要なだけ生産し、一度生産した物は徹底的に使用し尽くす。そのようなライフスタイルを社会として、作り上げていかなければならない。
また、エネルギー源としては、太陽エネルギーだけが永続可能なエネルギー源であることを十分に認識しなければならない。その最大限利用を社会として追求していかなければならない。電力源としてももちろんその十分な活用を考えなければならないが、それ以上に、直接的な利用も進めなければならない。産業面では、そのエネルギーを固定する役割を持つ農林水産業の重視であり、また生活の場においてもその利用を追求しなければならない。
人口増に伴う食糧不足の問題ともかねあわせ、農林水産業の重要性が高いことは言うまでもない。それに伴って労働の評価も変えなければならないであろう。いわゆる額に汗して働く労働の位置づけをもっと高いものにしなければならない。
労働に対する価値観、物質所有に対する価値観、生活の価値観を、根底から変えなければならないのではないだろうか。いわゆる豊かさの見直しである。
その価値観の転換を、科学的に行うためには教育の場が重要な意味を持つ。その中でも特に平和教育、人権教育、自然科学教育を重視すべきである。