永続可能な社会と宗教


講演 新間 智照 (妙法華院住職)




私と環境活動



地球環境を守る運動団体「アースデイひょうご」は1990年に発足。1970年にアメリカで始まりましたが、20年たって'90年からから世界中に拡がった国際運動で、地球環境を守る「地球の日」です。毎年4月のアースデイの行事を中心に活動していて、3つの行事を中心にしています。


(1)講演会やパネルディスカッション等(今年は林智先生に講演していただきました)


(2)クリティカルマス。自動車でなく自転車で走ろうという自転車パレードで、自転車愛好グループを中心に、私の寺を出発点に片道約1時間、戦争や震災の跡などに立ち寄りながら往復して、寺で豚汁とおにぎりの昼食をごちそうしています。


(3)みどりのコンサート。神戸市役所センター合唱団が毎年4月29日みどりの日に開いていて、アースデイが共催しています。


私がアースデイひょうごの代表をつとめています、といっても私は環境問題について専門の研究も活動もしているわけではないので、ここに専門の諸先生と並ぶのははずかしいのですが、30年来、宗教者として平和・人権・環境の諸問題を一つに包括した「平和活動」を続けてきた立場から、発表の責任を果たしたいと思います。環境については四日市公害や水俣病のころから教団の中では発言を続けてきました。



宗教とは



宗教との関係がテーマですが、宗教について、年輩の方はそれぞれ宗教とはこういうものだとイメージを持っておられるでしょうが、若い方々の中には「よくわからない」と思われる方も多いと思いますので、まず宗教について解説します。


世界には3大宗教、すなわち仏教(BC5C〜)・キリスト教(AD1C〜)・イスラム教(AD7C〜)をはじめ、多くの伝統的な民族宗教(ユダヤ教・ヒンズー教・神道・その他)や現代の新宗教があり、中にはカルトと呼ばれる非合理・反社会・熱狂的な宗教(たとえばオウム真理教)もあります。それぞれの教えや教団組織は多種多様で一括できませんので、これはちょっとおかしいと思う宗教には気をつけて下さい。宗教は薬にもなりますが毒にもなります。


しかし、その詳述はこの論の目的ではありませんので、ごく大雑把に言いますと、宗教とは、人間の知恵・能力を超えた絶対者(神・仏)の存在を信じ、仰ぐことにより、個人の心の苦しみを救い、さらに為政者を感化することや信徒集団を大きくすることによって、社会を変革し、理想社会を実現しようとする運動である、といえます。ただし「絶対者」といっても多少違いがあって、キリスト教では神は人間を超越したもの、超越者。プロテスタントになりますと人間に内在しているものということが強調されますが、人間を超越したもの、人間は神になれないという立場で宗教が成立しています。仏教では、人間が悟りを開いて仏になる、仏と人間とはつながっている、人間の理想的な姿が仏である、という形で仏を設定しているので、少し違いがあります。もっとも、多くの人間はまだ仏になっていないとの立場から、次第に変化して、人間は仏の世界にいる、じつはすでに仏であるがそれが顕れていないので、仏でない人間が絶対者としての仏を仰ぐという立場に、信仰が変化してきています。


そして、主に心の苦しみを解決するということから、宗教は個人の魂の救済と考えられていますが、じつはそこにとどまらない。宗教はいつも社会の変革をめざす運動になります。現在は主権在民の時代ですが、古代・中世では権力者が社会を動かしていましたから、その権力者を教化して信仰させることで社会を変えていきます。また信徒が増えていき集団が大きくなると大きな力をもち、その場合、権力者から弾圧されることもありますが、宗教集団が大きな力になると少しずつ社会を変えていくことにもなります。だから、理想社会を実現しようとする運動になります。それで基本的には永続可能な(というより永遠に浄福な)社会を想定し、それを希み求めるのが宗教です。



環境をどう認識するか(感覚・科学・宗教)



そういう宗教が周囲の環境・社会をどう見ているかを3つのレベルで考えてみます。環境といっても宗教の場合、現実世界のみではありません。


(1)個人の感覚によって知覚される外界環境を私たちは体験的に知っています。目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身体で触れることを通じて、周囲の環境がどんなものか経験的に知っています。


(2)さらに科学によって、ミクロにもマクロにも拡大された世界像を私たちは知識として持っています。ミクロでは分子・原子・素粒子、マクロでは宇宙がどうなっているかを、昔の人が知らなかった世界像を持っているわけです。


(3)しかし宗教は直観・霊感あるいは空想によって、もっと多元的な広がりの世界を説いています。現実世界を超えた、もっと大きな世界を想定しているのです。


次の図の左に示したように、(1)個人の感覚による小さな世界があり、(2)それが科学により広がり、さらに(3)宗教の設定している世界はそれよりも更に大きい世界・環境が考えられているのです。


fig1宗教の設定する世界観←画像入れる




さらに右図のように、現世、現実世界に人間や動物がいて、それより下のレベルと考えられるところに地獄があるとか悪魔がいるとか、人間と別に意識を持った主体がいるのだと考え、また上のレベルでは神とか仏とかボサツとか高い人格がいて、それぞれの場所を天国とか浄土とかに設定されています。これは空間軸の上の設定ですが、時間軸で見ますと、人間は現世に生まれる以前にどこかに生きていたという過去世があり、死んでも無くならないでまたどこか他の世界に生まれると、多くの人が考えています。


宗教が説くこの広がりの世界を、古代では現実世界の延長上に実在すると受け取っていました。日本の古代の原始的な信仰でいえば、海のずっと彼方にそういう世界があると信じられていました。今でも、お盆に精霊流しをするなど風習として残っていますが、現在では同じ空間の延長上ではなくて他の次元の世界と考えられています。


しかし科学が進むにつれて、宗教の示す世界観を素朴に信ずる人は少数となりました。しかし少数ですが、たとえば旧訳聖書の「天地創造」の記述をそのまま信じているグループがアメリカにいるといいます。2千年、3千年前に書かれた記述をそのまま信ずる、数百年前に教祖が言われたことをそのまま信ずるのを原理主義といいますが、今また原理主義が問題になっています。


しかし多くの人々は宗教による世界観を一字一句そのままに信じてはいません。宗教による世界観を、


(イ)迷信として否定する。科学による世界観が真実で、それ以上は迷信である。
(ロ)あるかも知れないが、あるとは言い切れないという懐疑派。
(ハ)「地獄も浄土も心の中にある」等の意味づけをして肯定する。ある意味では、地獄も天国も心の中にあるというのは大へん大事な考えなのですが、それ以上には認めない。
(ニ)さらに進んで「多次元宇宙論」等になぞらえて、かなりそのままに肯定する(死後の魂の存続を信ずる人は多く、したがって心霊的に他界の存在も肯定)。


それはどういうことかというと、現在の理論物理学では「多次元宇宙」という考え方が出てきていると聞いています。相対性理論以来、私たちの常識とは異なった世界像が出てきています。私は20才のころ、岩波新書でアインシュタインの『物理学は如何に作られたか』を読んで、相対性理論を知り、世の中の見方が変わったという体験をしました。相対性理論は4次元世界ですが、もっと多次元の宇宙論もあり、それを援用しますと、他界の存在も肯定できるとも考えられます。私たちの住む宇宙をどう見るかによって、また環境に対する自分の考えや態度も変わってきます。



いのちの尊重



以上のことを前提にして、宗教は「いのち」を大事にする点をのべます。宗教の基本理念に生命の尊重がある。といっても歴史上には異教徒に対する宗教戦争や武力紛争がありました。宗教の名において多くの人が殺され迫害を受けました。しかし、キリスト教も仏教も戒律の第一は「殺すなかれ」「不殺生戒」で、特に仏教では人間以外の他の生物にも及んでいます。宗教間の殺人・暴力も実はただ宗教だけの原因で殺し合いをしているのでなくて、民族問題など他の要因がからんで紛争が起こっていることが多いのです。日本では同じ民族の中で多くの宗教が信仰されているので、あまり宗教間の暴力は起きませんが、民族によって宗教が異ると、民族間の反目が宗教間の反目と見られることもあるわけです。だから宗教を信ずる者が殺人を犯していますが、まずは「人が人を殺してはいけない」ということを第一の戒律にしています。



戦争は最大の人権侵害・環境破壊



殺人のもっとも大きなものは戦争ですが、戦争や武力行使は、殺傷と破壊の暴力を使って紛争を解決しようとすることで、人類の歴史と共に続いてきました。人間となる以前の人類の先祖や、他の動物は同じ種の中で殺し合いをしません。ある条件の下では子殺しをすることもありますが、同種の中で殺し合いをすれば種が絶えてしまいますから、殺さないことが本能の中に組み込まれています。人間は道具を持つことによって人間になりました。道具を持たない動物は角や牙や爪でケンカはしますが、相手を殺すほどのことをすれば自分も疲れ果ててしまう。ところが人間は、相手より有利な道具を持てば簡単に相手を殺せます。ナワバリを争うことなどで、簡単に相手を殺せることがわかってきたことから、道具を使って、現在の戦争まで続いてきました。


しかし歴史上、19世紀までは、そんなに大量に殺せる武器はなかったのです。刀・槍・弓矢、やがて銃砲で、戦闘員同士が殺し合いました。しかし20世紀には機関銃の発明(日露戦争から使用)から原爆(1945年広島・長崎)に至る大量殺りく兵器の進歩によって、それが使用されると、あまりにもひどい人権侵害・環境(自然環境も文明環境も)破壊になることが、ひいては人類社会滅亡にいたることが、だれの目にも明らかになっています。


それでも米国をはじめ各国の国家権力は核兵器開発・製造・保有を進めてきました。それに対し、広範な市民による国際的な反核平和運動が組織されるようになり、
50年間の世界中の市民が運動を進めてきましたが、核兵器の開発・製造・保有は今でも進んでいます。保有国は自国の核兵器は温存しておいて、他国が持たないようにしよう(核不拡散)としています。アメリカがもっとも多く持っているのですが、保有国は自分は持つが「オマエは持つな」というので、核兵器を削減・廃絶する国家間の交渉はなかなか進みません。


その50年間の国際的な反核平和運動の中で、宗教教団はおおむねこれを支持し、少数ながら行動的な宗教者は平和運動の先頭に立つようになりました。国連軍縮特別総会(SSD)はI, II, IIIと3回ありその都度、世界中のNGOが要請のためニューヨークへ集まり、私も3回とも参加しましたが、第1回には宗教者の平和行進が1万人くらい、特に第2回(1982年)にはNGO全体で100万人(主催者発表)の大行進がおこなわれました。そんなとき宗教者は一般の人々から信頼されていますのでいつも先頭に立って歩きました。日本の国内でも同じで、毎年の「国民平和行進」は日本山妙法寺教団が始めた経緯もありますが、少数ながら宗教者は先頭に立ち、私も毎年1日だけ歩きますが、先頭で太鼓を打って歩いています。


「宗教者」と言っていますが、「宗教家」とはイメージが違います。宗教家とは一般にお坊さん・牧師さん等専門に職業にしている人を指しますが、宗教者とは信徒も加えて「宗教を信じる人」の意味で使っています。



いのちをえらびとる断食の祈り



宗教者による活動の一例として、すでに20年以上にわたり、毎年8月5日に広島の平和公園供養塔前で10:00〜16:00坐りこみ、それぞれの宗教(仏教各宗・キリスト教・天理教など)による平和の祈りをする行事が、最近では参加者が増え約60名で行っています。最初に提唱した人はすでに亡くなり、現在は私が代表者として行っています。このように宗教の異なった人が同じ場所で同じ行動するのは非常に珍しいと、外国の方からは言われます。日本の平和運動の中で宗教者はそうしてきました。


「いのちをえらぶ」とは、旧訳聖書の「あなたは命を選ばなければならない。そうすれば、あなたと、その子孫は生きながらえることができるであろう」(申命記)の言葉から米国の宗教者が提案し、日本の宗教者が「法華経」の「更に寿命を賜え」「即ち取ってこれを服するに毒の病みな癒ゆ」をあげ、合言葉としたのです。永続可能な平和社会は、自覚的に、主体的に選びとらねばならないことを表しています。永続可能な社会は何もせず実現するのではなく、私たちが自覚的に、主体的に択びとらねばならない、でないと人類文明社会は滅亡してしまうからです。


この行事は、原爆忌の広島に集まる多くの人々に訴えるパフォーマンスの要素もありますが、あくまで「祈り」が中心で、宗教者にとって祈りそのものの力が神仏を通じて、他人にも自然環境にも及んでいくとの信念をもっているのであります。



自然との共生



西洋の宗教・思想では人間と自然環境とは対立するもの、人間が主体で環境を支配するとの考えが強いのですが、東洋の宗教・思想では「山川草木の成仏」といわれるように自然にも人間と同じ生命を認め、人間の心と対境とが相即し共生するとの考えがあります。それは仏教の言葉でいえば「色心不二(心と身体や物質が一体)」とか「依正不二(依報=環境と正報=人間・衆生とが一体)」ともいいます。


その共生の思想と結びついて、自然環境の資源を浪費しないとの「少欲知足(少欲にして足るを知る)」の境地も生まれます。仏教だけでなく宗教はだいたい浪費をいましめる、物を大事にしなければいけない、そういう考えになっていますので、環境運動の中では大切な考え方と思います。


最近またいわれ出しましたが、「もったいない」という言葉、私たち戦前は毎日のようにこの言葉を聞いて育ってきました。ご飯を食べて茶碗の中に1粒の飯粒も残さないようにと教えられてきました。1粒の米も粗末にしない、無駄にしない、もったいないという考え方は大事なことだと思います。ただし食文化には2通りあり、碗や皿の料理を全部食べると、まだ足りないだろうと追加される、食べ切るとまた入れられる、少し食べ残すことが満腹満足の表示になるという作法と、全部食べ切ると「おいしかった」と満足の表示になる作法とがあります。



この世に浄土を顕わす



例えば日本の平安末期、浄土思想が流行する。この世はどうにもならない穢土(えど、汚れた世界)であって、ここでは成仏できないから、死後には仏の力で遙か遠い極楽浄土(ごくらくじょうど)に生まれて、そこで、よい環境で修行して成仏し、救われようという、現世に絶望して、この現実世界を否定する思想でした。話を単純化していますので、浄土系の信仰の方がおられましたら、ごめんください。


しかしそのあとに法華思想が広がり、この穢土、私たちの住む現実世界こそ実は仏の浄土であり、見えなくなっている浄土の姿を顕現させよう、との現実世界変革が志されるようになります。これは思想の担い手が時代とともに変わってきて、浄土思想は主に農民に、法華思想は新興の町衆など町人階級、商人で現実肯定的な人たちに担われ、現実社会を変革しようとするわけです。もっとも現在では、浄土系の宗でも「この世を浄土に」の方向に考えられているようです。


現在の地球環境は汚染が進み危機にある。しかし実はこの世界は人類にとって、かけがえのないすばらしい土地であるはずで、その本来の在るべき永続する平和で浄らかな世界に顕現しようと宗教者は思い、さまざまに活動しています。時間ですので、これで終わります。


(以上)