永続可能な社会とは何か
第2章 「文明を永続させる」という思想(その出現・発展・定着)
第1章(地球の性格が変わった20世紀)では、事実上無限に大きかった地球が、産業革命の進展とともに、「有限の存在」に変わった20世紀の事情を述べました。さてそれでは、私たちの集会が、その名称でうたう「永続可能な社会」とはいったい何なのか。それを知るため、もともとの言葉、「サステイナブル・ディベロップメント、永続可能な開発」、英語の原語ではSustainable Development(略してSD)ができあがっていく過程を見ておくことにします。
■開発の代替的スタイル■
<国連環境計画ができる> 1972年、「ストックホルム会議」の決議によって、国連環境計画・UNEPができ、翌年の年頭から活動を始めます。これはケニア・ナイロビに本部を置く、いわば国連の環境省にあたる機構です。そして1974年以降の70年代、このUNEPが主催する多くの国際会議が、世界のあちらこちらの都市を舞台に開かれました。ストックホルム宣言の中で取り上げられているさまざまな地球的困難に対して、国際協力の道を探るための技術会議です。
<1970年代の国連地球シリーズ会議> これらの会議群は「国連地球シリーズ会議」と総称されました。列挙してみると、1974年の国連貿易・開発会議(メキシコ・ココヨク)、同じく世界人口会議(ルーマニア・ブカレスト)、同じく世界食糧会議(イタリア・ローマ)、1976年の国連人間居住会議(カナダ・バンクーバー)、1977年の国連水会議(アルゼンチン・マールデルプラタ)、1977年の国連砂漠化防止会議(ケニア・ナイロビ)、1979年の開発のための科学・技術会議(オーストリア・ウィーン)などです。
<新しい開発のあり方を求める> これらの会議群の中で、開発に関する一つの概念が育ちます。「開発」とは、人間が、「文明」の名によって「自らの未来を創り出す行為」だと考えるとよいでしょう。たしかに人間の、未来を創造する能力はすばらしいが、その名による開発が無分別に行われると、人間自身と地球にとって、さまざまな不都合が起こります。こうして「地球の性格を変えてしまった『地球的問題群』は、これまでの開発のあり方が、よくなかったからだ、これを新しい、何らかの開発のあり方に取り替えなければならない」という問題意識が育ったのでした。
<さまざまな名称が> 「旧来の開発」に対して取って替えるべき「新しい開発」は、70年代のこれら会議群の中で、いろいろな呼び名で呼ばれていました。すなおに「新しい開発」、「開発の代替的スタイル」と呼ぶものから、開発の中身を少しでも表そうとした「破壊なき開発」、「永続可能な開発(Sustainable Development)」、「持続した開発」、「穏やかな開発」、「有益な開発」などがあります。これが一つの呼び方「永続可能な開発」に収斂していく気配を見せるのは、国際自然保護連合IUCNが、1980年の報告「世界保全戦略(World Conservation Strategy)」で、この語を用いて以来です。
■SD、「市民権」を確立■
<環境と開発に関する世界委員会> ストックホルム会議の10年後、1982年には、UNEPのあるケニア・ナイロビで、第2回の人間環境会議が開かれます。「ストックホルムの決意」がどれだけ実現したか、それを検証することが主な目的でしたが、開発のあり方への議論は進んだものの、「地球的問題群」へのグローバルな、各地域的な、また各国内的な取り組みはいずれもはかばかしくなく、努力強化の必要が訴えられました。これを受けた同年の国連総会は、いわゆる世界賢人会議の設置を決めます。これがノルウェーのブルントラント首相(現WHO事務局長)を委員長とする「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」です。
<"Our Common Future"> 委員会は4年にわたる作業の結果、1987年、報告"Our Common Future"(「私たちの共有の未来」)を国連総会に提出しました。報告名をくだいていえば「未来は私たちみんなのもの」とでもいうべきでしょうか。人口、食糧、生態系、国際経済、エネルギー、工業、都市問題、安全保障等、地球的問題群のそれぞれについて、現状の解析と改革への提案を行った労作です。この報告が、「あるべき開発」の名称としてSustainable Developmentを採用し、これを報告の基本概念としました。略してSDと呼ぶことにします。それ以来、SDという言葉は、世界的な「市民権」を得ることになりました。
■「地球サミット」から「ヨハネスブルグ会議」を超えて■
<「地球サミット」開催> 報告"Our Common Future"を受けて、国連では、SDを基本概念(キー・コンセプト)とした第3回の人間環境会議を、「ストックホルム」20年の節目の1992年、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開くことが計画されます。「リオ会議」と俗称され、また「地球サミット」とも名づけられたこの会議(正式名称「環境と開発に関する国連会議」)は、3万人の人々が南米の国の首都に集まる、当時としては人類史上最大の国際会議になりました。政府間の公式会議とともに、NGOの会議、グローバル・フォーラムが同時に同じリオで開かれ、重要な「地球サミット」の構成要素として正式に認められていたことが特徴的です。
<溢れるSD概念> 「リオ会議」では、「ストックホルムの決意」を再確認する「リオ宣言」、"Our Common Future"が示した改革の方向性を発展させ、21世紀人類の行動計画として仕上げた「アジェンダ21」が採択されました。もちろんこれらの文書には、会議の基本概念であるSDという語が溢れています。また会議では、最も突出した地球環境問題であり、SD
確立のための最重要な要素というべき気候変動問題と生態系の破壊問題に対処すべく、各国政府の「気候変動枠組み条約」と「生物多様性条約」への署名が行われました。またNGO会議では、「地球憲章」と「NGO条約」が採択されて、参加した多くの人々が署名しました。
<SDはもはや世界の常識> 「リオ会議」から後の1990年代、地球環境問題の関心の中心は、気候変動枠組み条約の締約国会議における、温室効果ガス削減の交渉にあったといってもよいでしょう。この条約は、1993年12月、批准国数が規定の50か国に達し(「地球サミット」における署名国数は155)、翌94年に発効、以後毎年その締約国による会議(COP)が開かれてきました。先進各国の削減目標を定めたCOP3(京都会議)の京都議定書、ブッシュ政権ができて以来の気候変動問題に対するアメリカの態度など、世界では多くのことが語られています。ともあれ1990年代のこうした経過の中で、SDという概念は「世界の常識」になったといってもよいでしょう。
<「SDに関する世界首脳会議」> 「リオ」後10年、「ストックホルム」後40年の2002年に、南アフリカ共和国・ヨハネスブルグで、第4回目の人間環境会議が開かれました。この会議の正式名称はといえば、「サステイナブル・ディベロップメント(SD)に関する世界首脳会議」です。これら一連の国際環境会議の名称は、はじめ「人間環境に関する国連会議」でした。それがリオでは「環境と開発に関する国連会議」となって、「環境の矛盾を引き起こすのは開発のあり方にある」という考えが反映しました。ヨハネスブルグではついに会議の正式名称の中に、SDの語が取り込まれることになったということができるでしょう。
■文明を永続させる■
<文明と開発と> 「開発」とは文明の名による「未来づくりの行動」だとはさきに述べました。それでは「文明」とはいったい何でしょうか。人間はおよそ1万年前のころから、それまでの、環境(自然)に対する受け身の生活(採集・狩猟)から抜け出して、自ら計画して環境を改変し、その中で快適に生きようとする能動的生き方へと移行します(農耕・牧畜の出現)。このような能動的生態と、それによって得られた成果の総体こそが文明です。人間が他の動物と異なる基本的な点は、文明をもつかどうかという点であるといえます。ところがその文明のための開発行為が度はずれて、文明の存続自体が怪しくなるなら、これはまさに人間存在のパラドックス(逆説)でしょう。
<誰もがサステイナビリティを言う時代に> 「この文明はいつまでもつづかない」と、人類が思い始めたのは20世紀もほぼその3/4が過ぎたころでした(「成長の限界」の公表は1972年。第1章参照)。そして「ストックホルム」、「ナイロビ」、「リオ」、「ヨハネスブルグ」と、このパラドックスからの脱出の道を求める模索が続きます。そして「ヨハネスブルグ会議」の翌2003年には、多くの人々が、さまざまな局面で、サステイナビリティ(永続可能性、持続可能性)を口にするようになりました。本年2004年には、サステイナブル、永続可能な、持続可能なを頭に冠する集会やシンポジウムが、各地で目白押しという感じです。10月に私たちが計画する市民集会も、この流れの中にあるのはいうまでもありません。