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永続可能な社会とは何か
第1章 地球の性格が変わった20世紀 〜 そして「地球的問題群」




およそ1万年と考えられている文明の歴史にくらべれば、20世紀の100年は、その100分の1にすぎません。一人でこれくらいは生きる人もいるほどの短い期間ですが、にもかかわらず、これは全く異常な100年でした。このあいだに、人類にとっての地球の性格が、根底から変わってしまったのです。ではどんな具合に?そしてなぜ?しばらくそのことを考えてみることにしましょう。




■まずは戦争と平和の問題■



<人類と闘争> 文明の歴史のはるか以前から、つまりは人類が地球上に出現したとき(数百万年前)から、彼らは他の動物たちと同様、生きるための闘争をつづけてきました。知能の発達した彼らは、やがてその闘いのための道具である武器や武具を発明し、これらを使って闘うようになります。相手はもともとは他の動物たちですが、社会と言えるものが発達するころには、同じ仲間である人間集団同士の、武器を使った闘争がしばしば行われるようになりました。



<闘いの道具・武器の発達> 最初に現れた武器は、石斧(せきふ)など石製のもの。やがて弓矢のたぐい。文明の時代にはいると青銅製、鉄製の斧(おの)や鏃(やじり)など、ついで刀剣、槍、甲冑(かっちゅう)などが現れ、15世紀には、火器、火砲がその地位を確立します。そして問題の20世紀、その半ばには、ついに究極の兵器としての核兵器が出現しました。武器、武具の発達の歴史は、そのまま、戦争の規模拡大の歴史であり、犠牲者数増大の歴史です。



<戦争のグローバル化と「冷戦」> 戦争とは、狭い意味では「武力による国家間の闘争」です。20世紀、その規模はグローバル化(地球規模に拡大すること)をしました。世紀前半には、二度の世界大戦が戦われています(第一次世界大戦1914年〜1918年、第二次世界大戦1939年〜1945)年。そして世紀の後半のほとんどは、いまから思えば悪夢のような「冷戦」の時代でありました。東西に分割された両陣営の双方で、数日もあれば文明の根絶やしができるほど、際限なく「核」による破壊力が増大していきました。



<熱い戦争も> もっとも冷戦下でも、地域的な「熱い戦争」は数多く行われています。冷戦時代に入ってまもなく、インドシナ戦争、朝鮮戦争、インド・パキスタン戦争。やがてベトナム戦争。ついでイラン・イラク戦争、アフガン戦争等々。そのうちに1989年、ベルリンの壁が崩れ、91年には旧ソ連邦が消滅して「東西問題」がなくなります。そしていきなり始まったのが湾岸戦争です。最近の15年間、全面核戦争でいきなり破滅という危機は遠ざかったものの、多くは内戦の様相を呈し、かつ国際化した地域的な熱い戦争が、かえって増えました。



<大虐殺> 戦争をすれば多くの人が死にます。悪夢のような大虐殺も、巨大化した戦争にはつきものです。私たち日本人は、すぐ「ヒロシマ・ナガサキ」を思い浮かべますが、日本もまた、中国大陸に汚点を残しました。ヨーロッパでは「アウシュビッツ」が象徴的存在。戦争あるところ、虐殺の例は、世界に枚挙の暇なく、あるいは数百万の自国民が殺された「カンボジアの悲劇」もありました。



<平和な地球をつくる試み> 「こんな戦争、人間同士の殺し合いを地球上からなくせないものか、たがいの命の安全を、生きる権利の問題として、尊重し合うことができないものか。世紀の前半は、戦争がエスカレートする裏側で、平和な地球をつくろうとする努力が生まれ、前進し、そしてまた挫折をくり返した時期でもありました。国際法の発展に一時期を画したハーグ平和会議は20世紀のまさに初頭です。にもかかわらず起こった第一次世界大戦のあと、国際連盟(1920年創設)ができますが、これもまた第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできませんでした。



<国連は奮闘するが> それらの経験と遺産を踏まえ、第二次大戦の終結とともに平和の維持と人権擁護のための枠組みとして生まれ、いまに生き残ってきたのが国際連合(国連、1945年創設、当時の加盟国数51、2003年現在のそれ191)です。2001年のノーベル平和賞は、国連とアナン事務総長に贈られました。ことほど左様に、平和の問題を含め、数々の「地球的問題群」を克服するうえで、国連が生んだ成果は偉大ですが、しかもなお人類は、私たちが日々体験するとおり、いまだに地球上から戦争を追放することができないでいます。



<戦争による死者数の増大> 世界の戦死者数のあらましを、統計から拾いましょう。16世紀のそれは約160万人、18世紀には約700万人、19世紀が約2000万人、そして20世紀が1億人超です。このものすごい増えようの背景には、戦争の大規模化、グローバル化、戦争手段の高機能化があります。そしてそれを可能にしたのは、18世紀の後半に始まり、19世紀の終わりには、ほぼ現在の先進国の範囲にまで拡大した技術革新と生産力の増大、すなわち産業革命の波及がありました。




■人口問題と環境問題■



<産業革命が生んだ「地球的問題群」> 化石燃料を燃やし、限られた狭い空間で、急激に大量のエネルギーを解放する、それを用いて機械を動かす。こんな革命的な生産の効率化(産業革命)は、上述のように、戦争の規模拡大の背景になりました。しかしことはそれだけにはとどまらないことが、20世紀の前半を通じて、次第に明らかになってきます。たしかに産業革命とその広域化が、人々の生活の向上に果たした大きな役割は疑いのないところでしょう。だが一方で、それは人間にとって、地球という「容れもの」の性格をがらりと変えることになります。問題の双璧は、人口問題と環境問題です。人類は、「地球的問題群」と総称される数々の困難に直面することになりました。



<人口爆発の世紀> まずは、世界における人口の動きのあらましを見ましょう。西暦1年ころの人口は約3億と推定されています。それが産業革命が始まる直前の18世紀半ば、約7億になりました。そして19世紀初めに9億、20世紀はじめに16億であったのが、中ごろには約25億、2000年には60億を超えました。数字は「うなぎ登り」、20世紀が「人口爆発」の世紀だと言われるゆえんです。



<食料増産が環境問題を生む> このような人口の爆発的増大を可能にしたのは、「緑の革命」(1960年代後半以降、品種改良、灌漑、多農薬、多肥料を軸に行われた農産物の増産)を含む農業技術の革新や、さらには耕地の拡大と極限までの淡水開発、その結果得られた食糧の大増産です。大量の農薬と化学肥料が大地にばらまかれました。こうして20世紀人類は、一方では食料の確保に成功したものの、他方、極端な森林破壊や生態系の劣化、人工的につくられた化学物質の洪水の中で生きることを強いられるようになりました。



<人口増大はもう限界> 地球生物圏を破壊的ダメージに追い込みながら、増える人口に対処して行われた食料増産ですが、いまやそれももう限界。人口が現在の勢いで増えつづけるなら、いずれ子孫の世代には、じわりと進む飢餓の蔓延、人間社会らしからぬ強者と弱者の相克、戦争顔負けの修羅場が広がることをさえ覚悟をしなければなりません。しかしながら下手をすると、その前にもやってきそうなのが、この15年来、人類的関心の的になっている気候変動問題(日本ではしばしば「地球温暖化問題」)です。原因は周知のように、巨大な人口を養うための、各種の生産拡大が生み出した大気中温室効果ガス濃度の増大です。



<気候変動問題> 南極の氷床の融解や、世界各地の氷河の後退が、しばしばニュ−スに現れます。「このまま行くと今世紀中には、最悪何メートルも海面が上昇し、国土全体が水没する国まで出てきそうだ。日本はマラリア圏にはいるだろう。何よりも恐ろしいのは、地球生態系の全面的なシフトで、現在は快適である環境も、人間の住めない土地に変わってしまうかも知れない」。そしていまやこのような「予測」ばかりではありません。「異常気象、異常気候の日常的な出現として、すでに誰もが、その予兆を、身をもって感じているのではないか」といった具合であります。




■地球の性格が変わった〜「無限の地球」から「有限の地球」へ■



<巨大であった地球> 「西へ西へと進めば、いずれ自分は東から、いまいるところに帰ってくる」と、初めて人類が知ったのは、ようやく15世紀から16世紀にかけてのころでした。人間にとって、かつての地球は大きく、彼らがどんな勝手な振る舞いをしようと、環境に生まれた矛盾は、すぐ元に戻りました。「地球生態系」とはいわば「自然の秩序」、「人間環境」の別名ですが、それは人間活動が生んだ環境の乱れを、すべて自らの中に呑み込んで処理をしてくれていたのです。だが産業革命が世界に広がると、こんな常識が次第に怪しくなっていきます。



<「沈黙の春」> 20世紀も半ばを過ぎ、1960年代にはいるころ、合成化学技術の最大傑作の一つと考えられていたDDT(効き目が長持ちする塩素系農薬、発見者P.H.ミュラーは、ノーベル賞を受賞)が、極地の動物たちの体内に見つかります。化学汚染が地球規模で広がっていたのです。1962年、女性生態学者のレーチェル・カーソンは、「沈黙の春」を書いて、人工化学物質にむしばまれる地球の地獄絵を描いて見せました。虫がいない野や森では、鳥は生きられない。「春になって、花は咲いても、それは歌声のない『沈黙の春』だ」と警告したのでした。1960年代は、カーソンを象徴的存在とする科学者たちの警告の時代だったといってもよいでしょう。



<人間、月の大地に立つ> 科学・技術が発達し、人間活動の規模が大きくなると、かつての偉大だった地球は、小さな愛すべき存在へと変貌していきます。そのことを実感をもって人々に思い知らせたのは、1969年のアメリカ・アポロ計画の成功でした。宇宙飛行士・アームストロングは、月の大地に立って地球を眺めました。宇宙時代の幕開けです。
「宇宙船・地球号」という言葉が流行語になりました。この「人類の月到達」が、人間活動がグローバル化した20世紀開発の「光の部分」の象徴だとすれば、「沈黙の春」が警告した「地球規模の汚染」は、「影の部分」の典型だというべきでしょうか。



<「成長の限界」の衝撃> そして3年後の1972年に、衝撃的な一つの報告、ローマ・クラブ「成長の限界」が公表されます。ローマ・クラブというのは、いわば文明の未来に関心をもつ、世界財界人の集まりです。結成集会がイタリア・ローマで行われたため、こう呼ばれています。これは、財界人グループの報告ながら、中身は、同グループがアメリカMIT(マサチューセッツ工科大学)のメドウズ夫妻ら、研究者たちに依頼して行った人類初の「文明の未来予測」(コンピュータ・シミュレーション)です。その報告の結論は「このまま右肩上がりの経済成長がつづくと、資源の枯渇や環境の荒廃のため、現代文明はあと100年ももたない」というものでした。これはすでに「有限の存在に変わっている地球」の現況を、数字をもって裏付けるものでありました。その後進んだシミュレーション技術を駆使して、多くの予測が行われましたが、いまでは72年の「成長の限界」の大局的な正しさを疑う人はいません。



<ストックホルム会議> 一方、国際政治の舞台で、「有限の地球」を確認したのが、同じ1972年、スウェーデン・ストックホルムで行われた人類史上はじめての人間環境会議です。ヨーロッパにおける国境を越える酸性雨、湖沼の酸性化、そこに住む魚たちの死滅、広範な地域に広がる森林の崩壊という現実の危機感がその背景にありました。集まった世界の首脳たちは、国連というつながりをきずなに、これらの深刻化した環境問題を克服するため、たがいに協力し合うことを誓います。本来は戦争の防止と人権擁護の枠組みである国連は、この会議以来、環境問題をその重要な行動の第3の柱に位置づけることになりました。



<環境と開発に関する良識的思想の流れ> 大きな話題になった二つの会議、「ストックホルム会議」と、20年後の「リオ会議」(「地球サミット」、環境と開発に関する国連会議)との間に挟まれて目立ちませんが、1982年には、ケニア・ナイロビで、第2回の国連人間環境会議が開かれています。その結論を受け、国連総会は、「環境と開発に関する世界委員会、WCED」を設け、「地球的問題群」の解決に、世界トップレベルの知恵を集めることを目論みます。この委員会は、1987年に報告"Our Common Future"を国連総会に提出する、俗にいう「ブルントラント委員会」です(後に再述)。そしてこの報告を受けて開かれたのが第3回目、92年の「リオ会議」です。そしてさらに10年後の「ヨハネスブルグ会議」へとつづきます。「ストックホルムから」から「ナイロビ」「リオ」さらに「ヨハネスブルグ」を超えて流れる、環境と開発に関する(地球の有限性を自覚した)良識的思想の太い流れがあることにご注意ください。

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