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 3月21日(第3日目)は、第1日目の記念講演やパネル討論、第2日目の基調報告、各分科会における討論などを背景に、できるかぎり多くの参加者に発言してもらうことを試みた。


 午前は分科会からの代表者による「挑発的な問題提起」(そうお願いした)と全体討論、午後は発言通告用紙に記入して提出してもらい、10人の方々に壇上から問題提起をしてもらって、のち全体討論をした。


このファイルに記録されているのは、午前に行われた各分科会からの問題提起である。いくつかの行き違いが重なり、第2分科会からの問題提起が、記録としては欠落したことは残念である。      (編集事務局)






第1分科会 「地球時代の新しい経済を探る」からの問題提起


菊本 義治


分科会や集会での討論をふまえて、次の点についてのべたい。


1.「持続可能な発展」は、(1)次世代の環境保全と経済発展に関する決定を束縛しないこと、つまり環境ストックを維持・再生産すること、(2)その前提のもとで経済発展をおこなうことを主張している。経済発展が必要なのは、現在の貧困問題などの深刻な問題を解決するためであり、また、次世代において生じると予想される諸問題(例えば高齢社会や人口増加など)を解決するためである。


2.経済発展は物的財貨の拡大と理解されている。しかし、環境を破壊するような物的財貨の拡大は経済発展とはいえない。かりに環境規制下で物的財貨が減少したとしても、財貨の構成と質をかえることによって生活の質を向上できるならば、それは経済発展である。


3.豊かさと環境とは両立しない、という意見は誤りである。確かに、環境制約のもとでは無限の成長は不可能であり、「贅沢ざんまい」をおこなう余裕はない。しかし、現在のムダ(軍事費など)をなくすことによって、現在の貧困を克服・是正する方策を追求できる。また、環境保全型の技術を開発することによって、豊かさと環境の両立の可能性が広まる。さらに、大切なことは豊かさの内容である。豊かであるかどうかの判断材料の一つは、人間の権利や尊厳が認められているかどうか、われわれの生活スタイルをどのようなものにするかの決定への参加が保障されているかどうかである。「持続可能な社会」(以下、SSと略す)は、決定へのアクセスがすべての人に実質的に保障された共同決定社会であり、徹底的な民主社会であり、個人の自由=自己決定と尊厳の保障された社会である。


4.環境破壊の最大の原因を生活者の生活態度(浪費、食べ残し、着飾り、大量のゴミなど)に求める意見が、この集会でかなり表明された。生活者が全く環境破壊に無関係であると主張する気はないが、その意見の多くは、大企業の環境破壊を免罪しようとするものであり、「一億総懺悔」によって環境破壊の原因をあいまいにするものである。


5.SSを実現する際に企業の役割は大きい。企業は人間の対自然制御活動(生産)の最前線組織であり、企業とくに大企業が何をおこなっているかは、人類存続にとって無視できないからである。しかし、大企業はSS実現の主体的担い手ではない。資本主義社会での企業とくに大企業の目的は利潤追求であり、企業組織の拡大であり、経済成長の追求である。したがって、現在の大企業は、環境規制=成長制約にはなじまず、かれらの自発性に期待することはできないのである。


6.SSは誰かが一夜にして造ってくれるようなものではない。足元から一つ一つ住民運動・市民運動を積み重ねていく以外にない。そのエネルギーこそがSS実現の力であり、住民運動の発展があってはじめて企業をかえうるのである。





第3分科会 「自然との共存の原則を探る」からの問題提起


第3分科会事務局:高柳範子


<以下、第3分科会における報告者各位のご発言の要約をもって、分科会での討議事項のご報告に代えさせて頂きます。>


 第3分科会のテーマ「自然との共存を探る」は、我々が目指すサステイナブル・ソサイエティの具体像の中に、ecological sustainability の保証が含まれなければ、その達成はあり得ないであろうとの共通認識から設定されたものである。ただし、ecological sustainability とは、生態学的バランスの保持のみとして捉えるだけでは不十分であり、バランスと共に、自然な進化の過程を妨げないようにすることも前提とされていなければならない。また、このecological sustainability は、生態系の構成要素として存在する野生生物の健全な状態での生存に大きく依存しているのであり、「自然との共存」へのアプローチを「野生生物との共存」を目指すところから捉えることもまた共通認識であると理解する。


 現代における人間社会の技術発展は、自然のうちにある材料に明らかに依存しているにもかかわらず、実際には、その関係を全く意識せず、日常とは切り離して営まれてきているのが実情である。こうした環境下にあっては、我々の意識における自然というものが、極めて疎遠となり、隔離された「人間社会」環境の中で、我々人間がその生存のためにどのような物質や食物を選択・利用すればよいかを判断する力がますます希薄になる。人間社会は、自然の中に人間を「組み入れる」プロセス、あるいは、再び、自然の中へ「戻していく」プロセスに真剣に取り組むことが要求されてきているのである。


 人間社会として自然にかかわっているという現在の最大の接点は、農・林・漁業であるともいえる。しかしこれは、シニカルな関わり方である。例えば、現在の林業の営みは、野生動物との共存を積極的に認めるものではない。日本の天然林の現在の分布は、国立・国定公園とほぼ一致しているが、こうした指定地域は、標高が高い地域、高緯度地方などに集中しており、農林業などには適さない低生産効率の土地柄であるがゆえに、天然林として残存してきたともいえる。逆の見方をすれば、人間が利用できる土地は、利用し尽くしてきた、ともとらえることができる。ブナ林や照葉樹林の伐採が続行される中にあってさえ、「緑豊か」に移る日本ではあるが、野生動物を指標としてみれば、彼らがあるべき姿で存在しない日本の「緑」は、生態系の痛々しい姿の象徴に過ぎない。日本の森林計画は閣議決定により進行し、計画内容には野生生物は全く含まれない。森林を、野生生物も含めた生態系全体としてとらえ、その生態系のサステイナビリティを保証するための統合的措置とその所轄省庁の整備を要するであろう。


 自然生態系を守る権限については、人間が人間自身の活動を制限するための根拠としての権利のほかに、新たに、自然物そのものに、それが存在する権利、あるいは、その存在の在り方を保証する権利を認めようとする展開もある。「自然の権利」である。ある地域の自然物と、別の地域の自然物との関係は、それらと人間との関係に拠らず独立して存在する。自然は、我々の経済的資源ではなく、すべての種の基礎であり、すべての自然は内在的価値、倫理的根拠を有するものと考えられる。倫理とは、ある見方によれば、行動の自由の制限、人間の一部の自由を放棄すること、であり、環境道徳という人間の側の問題としてとらえれば、自然の権利とは、他の種の生存を保証し、個人ベースの倫理から生態系ベースの倫理へと発展させることでもある。しかし、既存のシステムの中で、自然の権利の保護の早急な達成を望むには、難題も多い。そこで、自然の権利に関する条例制定の課題として、まずは、「第三者」による自然のための利益主張を可能にする、すなわち、市民の声を反映するような自然享有権という権利を「人間の権利」というかたちで認証を得るという方向での自然物の存在の保証手段も考えられている。これもサステイナブル・ソサイエティへ向けての具体的重要課題の一つとしての取り組みとして相応しいものであろう。


 人間は、「時間」という概念をもっている動物であるがゆえに、時間を極力節約するよう利便性を追及し、様々な技術を発達させてきた。「時間をかけない、体力を使わない、腕を磨かない(例えば、狩猟の伝統的技術が銃にとってかわるなど)」という現代の三無技術が発展した。他方、生態系の法則に矛盾しない生活を貫こうとすると、どうしても時間のムダを生じる。100劼瞭残を歩けばエコロジカルであろうが、時間がかかる。車で行けば、排ガスによって環境に負荷がかかるが、少なくとも自分の「時間」は節約できる。しかし、便利な生活を営んでいる一方で、その結果としての気候変動、オゾンホールなどといった問題に対処するための環境保護、野生動物保全といった活動に、我々はまた時間を費やしてもいるのである。あるいはまた、森林伐採が、自然下に存在するだろう未知の医薬を発見する可能性を奪いつつあるかと思えば、一方で、医学の進歩のために数多くの研究者らが膨大な時間を費やしている。


 今一度、本当に「ムダ」と呼ぶべきは何であるかを問うてみるところから、発想の転換を試み、自己の時間収支を生態系レベルの時間収支に近づけ、統合させていくことも、サステイナブル・ソサイエティへの取り組みの基礎に置きたい。





第4分科会「サステイナビリティとエネルギー・科学技術」からの問題提起


西川 栄一


1 技術の開発・利用の転換の問題
  地球規模の環境破壊を食い止めるには、技術の開発・利用を環境保全型のものに転換して行かねばならない。そのための生産のあり方をSDというとすれば、それは生産活動に対して、空間軸だけでなく、時間軸をも合わせた高度な社会的管理を導入していくという課題を提起する。この課題に応えるような科学技術の根本的転換を検討する場合、科学技術に関する2つの面を考慮すべきである。1つは、技術そのものの発達史からみても現在は転換期にあること、もう1つは技術体系と経済社会システムとの関係である。


2 技術の発達史は、一体道具時代→複合道具時代→機械時代→コンピュータ機械時代と大別される。現在はコンピュータ機械時代への転換期にある。そうだとすれば、コンピュータ技術がSD/SSを目指す生産システムのキー・テクノロジーとなろう。


3 人間社会の歴史は、技術体系と経済社会システムとの間に密接な関係があることを示している。とすれば技術体系の転換と合わせて、経済社会システムの転換も視野に入ってくることになる。一方技術は生産のための手段であって、何をどれだけ生産するか、その時どんな技術を開発し、利用するか、は経済社会システムが決める。したがって環境保全型技術の開発・利用を目指すには、経済社会システムの方も転換が迫られているといえる。


4 環境保全型生産技術の開発利用を目指す上で、2つの面がある。1つは環境保全型技術そのものの研究開発、もう1つは科学技術政策であり、その中では科学者技術者がおかれる研究開発の条件も重要である。


5 この2つの側面を考慮して、現在展開されるべきエネルギーに関わる科学技術活動の基本方針は、
 _柔佛確舛梁舂名暖餽渋い鯏彰垢掘⊂淵┘諭再生型エネルギーヘ向かうという方針の明確化
◆仝什澆侶从兌匆颪砲いて、規制と誘導で上に述べた技術の開発・利用が可能なような企業に対する社会的管理政策とその具体化計画
 企業・政府に対するNGO運動の一層の発展
じΦ羲圓紡个靴董⊆主的民主的な研究開発活動ができるような社会的条件の整備





第5分科会 「地球時代の環境政策と法制度」からの問題提起


山村 恒年


 永続可能な社会を実現するための環境政策と法システムの変革については、次のことが必要である。


1.生態圏民主主義の理念の確立
 現世代の最大多数の最大幸福の理念を転換し、将来の人間と生態圏の永続可能な社会のための民主主義を確立すべきである。そのためには、現在及び将来の生態圏の代表者としての環境NGOに、別の投票権と政策参加権が認められるべきである。


2.永続可能な社会のための環境倫理の確立
 人類中心主義の環境保護ではなく、地球の生態圏が、全体として正常に維持できるようなディープエコロジーの倫理に基づく必要がある。それは、人間と生態系構成物間の公平・世代間の公平という考え方に基づくべきである。


3.永続可能な社会の法規範の考え方
(1)個々人の環境権とともに、自然自身の環境権を代行する権利(自然保護権)を法令で確立すること。
(2)すべての人・政府・自治体等の政策決定やその参加者は、社会における最も弱い者の立場(生態圏の構成物を含む)に立って判断形成を行うこと。永続可能な社会アセスメント(SSアセス)により評価すること。


4.永続可能な社会の基盤システムの確立
(1)国会の審議能力を高める情報収集及び調査研究機関の設置
(2)法案、行政立法案についてのSSアセスメント制度
(3)NGO・市民団体が自由に集会・調査・研究ができるNGOセンターの公費設立
(4)公務員SS研修センターの設立


5.永続可能な社会のための実施システム
 地球環境管理計画、SSアセスメント、環境アセスメント、情報公開制度、住民参加の拡大、環境オンブズマンの原告適格承認。市民訴訟制度。これらの手続きにより、環境と発展の統合を図る。


6.中央集権から地方分権とNGO分権へ
 中央政府の官僚が国家の各種の基本政策をつくる行政国家を転換し、地域の自立的な永続的発展のための自治体と各種NGO、市民団体による分権的社会を構築する。


7.永続的地球社会の達成システム
(1)貿易とODAについてのSS衡平アセスメントの義務づけ
(2)NGO機関の国連政治参加の基盤整備
(3)国際環境裁判所設立





第6分科会「ライフスタイルをどう変革するか」からの問題提起


片山 弘子(三重県・ヤマギシ会)


 基調講演で宮本憲一先生が指摘されたように、環境問題の根本的解決は、工業化の行き過ぎを正し、農業がいかに社会に位置付けられるかにかかっていると言われる。農・林・畜の総合一貫した循環が、共に持続可能な社会実現の決め手になるという指摘もある。(注1)しかし現在の日本は、例えば第一次産業の就業率が人口の約1割、食料自給率も約3割で、いずれも年々減少の一途をたどっている。そのことが誰しも大切だと認めながらやる人がいない。


 一方、短期間に高度経済成長を果たし、敗戦直後の飢餓状態・物不足状態を脱して工業(特に大規模・大量生産)の所謂「豊かさ」を実現した日本は、第三世界の人々から将来のモデルと見做されている。ことに大人口を抱える中国が資本主義路線を急速に推進しわが国のこれまでの開発スタイルを後追いしている現在、日本が適正な農・工のバランスある社会モデルを提示しない限り、世界の潮流を環境調和型の方向に転換するのは至難といえよう。言い換えればこのような社会・生産システムを再構築する元となるようなライフスタイルにどう変革できるか、暮らしの中で第一次産業がもっと日常的な私たち自身のことになるためにどうしたらよいか、一手を打つ時期だということだ。


 第6分科会では実際に運動展開されている事例が持ち寄られライフスタイル変革の可能性を探ろうとした。それらに共通していえるのは地球全体の利益(社会全体の利益)より個(立場、家、国家など)の利益を優先させる対立観や個別思考をどう変革し得るかというテーマである。そのひとつの事例として、ヤマギシ会では―朶跳燭稜澄ξ咫γ椹唆箸魎霹廚法↓100万人レベルの食糧生産と供給を他に依存せず実現している、3,000人規模で社会モデルを提案している。以上の背景に加えて特に、ぁ崘澄廚蓮⊃佑本来的に欲し好きなものだという出発点に立ち、「人間育成の機会」「場」として位置付けた上で積極活用している。イ修Δい場として誰でもが活用されるよう、国内十数か所の実顕地が解放されている、という2点に注目できる。(注2)


 「農」や実顕地での「循環の暮らし」を大勢の仲間と体験することを通して自己を知り人間と自然との関わりを知り、社会や生き方を学びとる。生命を守り育てる喜びや労働の本質に気づいたり、新鮮で美味しい生産物にみんなで舌鼓を打つ場として地域・企業など社会教育の分野からでも、学校教育の分野からでも「島」的に各地に散在しているヤマギシズム生活実顕地を活用していくのはどうだろうか。地域社会と相互に補完し合い、現状そのままのうちに、新しい社会のあり方を身をもって体験→一人一人のライフスタイルの質的転換→新しい社会気風の醸成促進が可能ではないだろうか。具体的に全国規模での農業就業率向上、食料自給率の安定になるには、更に別の展開が待たれようが、その前段階となる具体的な一方法として、多方面の方々の検討を期待するものである。


▼注1 この点については一部環境分野の専門家からの主張とも一致している。
    内藤正明著『エコトピア』(日刊工業新聞社刊)等。
▼注2 「子ども楽園村」「ふるさと村生活体験」等の企画。子ども楽園村は20年目、年間15,000人参加可能。各種研究会の開催、参観体験等は三重県豊里実顕地で主に受け入れされている。





第7分科会 「21世紀人の集い」からの問題提起


大量消費中毒からの脱出を


第7分科会コーディネーター 
東郷 若菜(神戸大学学生)


 今日の社会は、永続不可能(unsustainable)である。ではsustainable societyを妨げている原因は何か、これを乱暴に一言で括ってしまえば、地球環境に負荷をかけ、無限の物質的拡大を続けていることにある。私たちは地球環境が再生できる限度をこえた資源を利用して生産を行い、地球環境が吸収できる限度をこえた廃棄物を廃棄している。人工的に、その可能な範囲で、リサイクルをしたり有害物質を無害化する技術を用いたりして、Sustainableの可能性を広げることができるかもしれないが、大原則として無限の物質的拡大から方向転換することが求められている。その主要な要素として、まず私たち自身ができることをすることが必要だ。


 今私がこれまで述べたことは、もうすでに当日の集会の中でも何度となく繰り返されてきた。ライフスタイルに関する本は、本屋で数多く手に取ることができる。だが何故私たちの殆どは、ライフスタイルを変換し、それを持続できないのか。


 私は、先進国、とりわけ日本がとらわれている、資本主義に裏付けされた大量消費は、まるで麻薬のようだと思った。地球環境問題に興味をもっていると言いながら、他方でバーゲンと聞けばデパートに走ってしまうのは、私だけではないと思う。ただ便利さ快適さに溺れるこの日本におけるコンシューマリズムは確かに異常である。それを重々承知の上で何故、私達はここから抜け出せないのだろうか。


 麻薬中毒の人は、そこから抜け出すとき、大きな苦しみを覚えるそうである。私たちは便利さから抜け出すのにきっと苦しい思いをするだろうことを知っているから、頭で分かっていても体で動けないのだと思う。また地球環境破壊の原因は企業や行政にあると、とかく批判のみに走りがちである。しかし、私たち市民は生産活動、消費活動を通じて企業や国家と大きくリンクしており、ともに地球環境に大きい負荷を与える共犯者とも言える。地球の秘密という漫画を書き上げた直後、小学校6年生という若さでなくなった坪田愛華さんの生前の言葉を借りれば、「人の為」というのは、「偽」と書くことができる。加害者であると同時に被害者でもある私たちは、他の誰の為でもなく、地球と一体であるはずの自分自身の為にこの巨大な問題に取り組むのだと、集会を通じて実感できた。


 大量消費中毒である私たちにとって、最初の第一歩は、怖くて勇気のいるものだろう。しかし地球環境問題群はかなり深刻である一方、幸いなことにこの大量消費は、長い歴史の中で戦後何十年と新しい。私達の体のどこかには自然への共生精神がしみついており、最初の第一歩をふみだしてしまえば、意外に楽なことに気付くかもしれない。欧米でのグリーンコンシューマーが、社会を変える決定的な力を持ち得たことをしっかり見据え、“一人だけなら”といった逃げ道は捨てて、大きな勇気をもってこの大量消費中毒から抜け出す必要がある。そしてそれを抜け出して健康になってはじめて sustainable society の方向性が明確に見えてくるのかもしれない。





第7分科会「21世紀人の集い」からの問題提起


「惑星と出会う“場”から」

徳山 良枝(会社員)


 環境問題を論ずるとき、南と北の利害が対立するとか、自然と人間の利害が対立するなどの意見がよく聞かれる。利害とは利益と損害のことである。利益には、もうけ、得になるという意味と、他を利するという意味がある。この二つは矛盾するようだが、利益の「利」が「利己」なのか、「利他」なのかが問題である。「利他」であれば他を利することが己の「得」になろう。皆が「利己」を主張するなら確実に破局が待っている。利益が、自分だけの利益なのか、それが本当に幸福なのか、よく考えなければならない。ちなみに「愛」という言葉には、利己も利他も含まれていて、ともすると愛が憎しみに変わるのはそこに利己があるのではないか。


 仏教には、人間、動物、草木、岩石にいたるまで、すべての存在の根底に仏性(根源の法則)を観る考え方がある。すべては同じ法則のもとにあり、持ちつ持たれつで、他と離れて一つだけで存在できるものは何もない。宮沢賢治の言葉に、「世界が全体幸せにならないうちは個人の本当の幸せはない」とある。他の不幸の上に築く幸せは、どこか空虚な幸せで、いつか必ず、他へかけた不幸のツケが自分に回ってくるものだ。これからは、この利他の思想を根本に科学も経済も考えていかなければならないだろう。


 利他を敷衍して、人と社会の関係では「公利」を考えたい。この公という言葉は日本では、政府、国家という意味で捉えられていることが多い。そして「私」と「国」が対立するのである。しかし、公共、パブリックという意味で捉え直してみると、ここには利己的な「私」も「国」もない。この「公」のフィールドでは問題を傍観するのではなく、主体者として取り組む個人個人がいて、行動している。皆のためが自分のためでもある。ニューヨークでは、一定の大きさ以上になると私的なビルであっても、中に市民の憩える場を設けなければならない。ビルの中庭に噴水や滝や緑地があったりする。オランダでは大通りに面した家は窓辺に花を飾らなくてはならないきまりがあるという。だが日本では、自分の土地では何をしても良いという風潮がある。まして空気や水や土地が、人間とすべての生物の共有財産だという認識には程遠い。


 深層心理学では、意識や存在の向こうに、集合無意識を想定している。夢に出てくる浅い領域から徐々に時間や空間の境界が曖昧になり、時空を超えて同じ精神文化を持つ人間どうしの無意識のつながりがある。仏教の九識論では、そのさらに奥に、植物や動物の無意識とつながる領域があると説く。その究極には惑星・地球と出会える“無意識の海”がある。その心の領域では他の生き物の苦しみを我が痛みと感じ、または緑の双葉が陽光目指してひらきゆくような、爽やかな地球の喜びを感じている・・・。


 政治家や経営者をはじめ、すべての人がこの自己の内なる“地球”と対話しながら行動していくなら、世界はずいぶん良い方向に向かうだろう。


 SSはユートピアだ、という意見も聞かれるが、私は、いつかSSが完成し、建設が終わる日がくるとは思わない。環境裁判所やグリーン経済などSSの諸条件が確立されたとしても、人間生命の本源的貪欲さ、戦争の抑止等、環境破壊の脅威との闘いは永久に続くからだ。では、SSはユートピアかというとそうではなく、意識を持った人々が世界の(例えば)3分の1ぐらいになり、SS建設に向けて行動するとき、その行動の中に、SSは現出するのではないだろうか。行動をやめたり、意識を持った人が減れば後退する。つまり、伝えることと行動を持続するなかにSSはあると思う。


 SS革命というのは、一面、思想革命であり、芸術や文化の力によってソフトに変革できればいいと思う。頑固な人々を変えようとして、時間を費やし疲弊するより、大量消費をやめ、欲望の奴隷から開放されて自分らしさを取り戻した生き方が、どんなに輝いて素敵に見えるかをみずからが示す。その生き方をメガ・トレンドとしていけたらいい。


 例えば音楽の力で何ができるかを示す話がある。10年ほど前、難民救済のため、世界のロックミュージシャンたちによって行われた「ライブ・エイド」。その後もエイズ救済や反アパルトヘイトを訴えるミュージシャンの活動が続いている。南アフリカのマンデラ氏(現大統領)が牢獄に捕らわれていたとき、やはり大規模なライブが行われ、アーチスト達のよびかけに世界8億の人々が感動し、南アフリカに抗議の電話が殺到し、世論が一気に高まった。それが遠因となって、マンデラ議長を釈放せざるを得なくなり、アパルトヘイト撤廃にまで到ったという。メガ・トレンド形成に果たす文化と若者の役割は大きいと思う。





第8分科会 「地球時代の環境教育」からの問題提起


槇村 久子


 地球時代の環境教育は、公害という形で破壊を起こさない環境破壊物質という概念の登場により、新しい対応が求められている。この地球のもつ自然システムを維持する機構の破壊の本質的特徴は、広域性、進行性、相互関連性、不可逆性である。地球上のあらゆる人々に、世代を超えて、長期にわたる。また大量生産、大量消費、大量廃棄と低消費と低生産条件という社会経済システムからきている。


 これらに対応する環境教育は、第一に結果が出たときには手遅れという、次世代に影響が及ぶかもしれないものに、科学的予測に基づく予防的対応が必要であり、理性的判断ができるための環境教育が重要である。第二に南北格差の不公平や戦争をもたらす北の過剰消費とそれを支える社会経済的な枠組みを変えていくことにある。


 そこで、学校教育だけでなく、市民、自治体、企業、大学などすべての分野で多様なレベルで必要である。「地球規模で考え、行動は地域で」と言われ、すでに地域でさまざまな実践活動がされてきている。しかし多くの地域活動が、あるレベルで自己慰め的になりがちで、地球規模の環境問題の解決には結び付きにくいこと。また自然体験分野の活動が自然と人間の関係の認識を変えても、人間と人間の関係性を変えていく社会的公正の視点を持っていないことが、日本の環境教育到達度として問題である。さらに言えば、自己の価値観やライフスタイルの転換にはほど遠く、どのようにそのレベルに移行していけるかの研究が必要である。たとえば、妻が生活者、消費者として地域活動している一方、夫は生産者として環境負荷の大きい製品を追っている男女の関係をどう考えるのか。生産者と消費者、行政と企業、市民と行政、途上国と先進国、そして家庭では夫婦の関係など多面的な関係性の再編をしていかなければならない。


 最も影響力が在るのは、政策に関わる自治体職員、企業社員、学校教員、教員を養成する大学教員、そして子供たちへの直接の環境教育である。現在関心の強い、熱意ある一部の人々に負っているが、環境教育が担保される法的裏付けと予算が必要だ。次に分野間の連携では、人文科学(芸術も)、社会科学、自然科学、野外探究などあらゆる分野との連携と統合、特に自然系と社会系の環境教育の連携が大切だ。また全く関心のない人々にも知ってもらい行動するきっかけがいる。


 環境教育を深化すると、時間と専門性が必要となってくる。また市民が考えや活動をステップアップさせたり、政策決定へ提言能力を見につけていくには、NGOの存在が大きい。なかでもボランティアとあらゆる分野の情報と専門家との場を結び付けていくコーディネーターの役割が重要になる。それにはNGOの税制優遇措置、設立認可、情報公開などの制度的裏付けが必要である。さらに環境教育と政策と個々の実践活動のフィードバックのシステムを創ることである。


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