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永続可能な社会とは何か
第5章 「永続可能な社会」の構築を目指して




<究極の人権社会> 「永続可能な開発SD」という概念は、前章で述べたように、「世代内の公平」(同世代内に、幸福の度の格差が少ないこと)と「世代間の公正」(子孫との間に、幸福の度の格差が少ないこと)という両者の意味を含みます。「永続可能な社会SS」は、そのような開発のシステムが、全うに機能している社会です。いうならばすべての人類が、平等に幸福を追求する権利を保障された「究極の人権社会」というべきでしょうか。20世紀、グローバル化した世界の「地球的問題群」が自覚されるなかで、いまや「SD、SSの構築」は、21世紀人類の行動の合い言葉として、すでに人々の共通理解になったといえるでしょう。



<大前提は戦争の追放> SSが究極の人権社会であるならば、人間同士が、集団で、あるいは個々に憎み合い、果ては殺し合いまでしていたのでは、その構築など、夢のまた夢です。戦争の追放、平和の確保は、SS構築の大前提だといえるでしょう。しかしいままで、平和を求める運動と全うな環境に住むことを求める運動とは、それぞれが別の人たちによって担われるものだという思い込みがあったのではないでしょうか。SSを求める21世紀人類の行動のなかで、この両者がすべての人々によって、同じ視野でとらえられる必要があるのは明らかです。



<戦争追放は可能か> それでは果たして、この地球から「戦争の追放」が可能でしょうか。「東西問題」が消滅した後も、人々の期待を裏切って、世界のいたるところで「集団的な殺し合い」がつづきます。たとえば90年代に入って、湾岸戦争を皮切りに、一連のユーゴ内戦、アフリカ・サブサハラの国々の内戦、ルワンダ、旧ザイール、ソマリア、チモール、アチェ、パキスタンとインド、そしてパレスチナ、アフガン、イラク・・・、もう枚挙に暇がありません。そして2001年9月11日の事件以来の成り行きは、言葉をあらためて言う必要はないでしょう。世界に行き渡った小型武器、相変わらずそれらを生産する先進国、都市生活のモラルが荒廃しグローバル化をする中で、目を覆うような個人レベルの惨劇も頻発します。情報社会の中で、日々の事件を追いながら、悲観的な思いにさえ駆られるこのごろです。



<「ある日」突然?> もちろんいままで、国際社会では多くの努力が積み重ねられてきました。その源は20世紀以前にさかのぼります。そして愁眉を開かせられる例をたくさん挙げることもできます。最近の著しい例では、多くのNGOの国際的な連帯行動が、対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)(1997年調印、99年発効)を生みました。にもかかわらずなお、おびただしい大小の報復合戦がエスカレートする現状をどう変え、どう克服していくのか、いま軽々に処方箋の書ける段階ではないことは明らかです。しかしつぎのことは、事実の問題として言うことができます。日本国内でさえ、いまからわずか100年少し前には、京都と鹿児島が戦争をしていました。自覚をした世界の市民の小さな思いと行動が積み重なって、「ある日」突然、世界から戦争がなくなる可能性は絶無でしょうか。89年のベルリンの壁の崩壊は、その10年前には誰が予想できたでしょうか。



<人類が生み出した妖怪> 「京都と鹿児島が戦争をしなくなったのは、社会に外敵が現れたから」で、「地球人類同士が戦争をしなくなるのは、宇宙人と闘うようになったとき」だ、こんな話をどこかで聞きました。もっともな論理ながら、空想科学物語(SF)の世界に同調しているわけにはいきません。気候変動、生態系崩壊の危機など、「人類自体が生み出した妖怪」こそ、SFが象徴的にいう「宇宙人の侵略」にほかならないのではないでしょうか。



<二つの潮流> そしていま環境と開発にかかわる世界には、「妖怪をやっつけようという勢力」と「妖怪に与(くみ)していることに気づかない勢力」の二つの潮流が入り乱れて渦を巻いています。第1章や第4章などで述べてきた、「ストックホルム」から「ヨハネスブルグ」を超えて流れるSD実現をめざす良識の流れと、「地球は無限」の思い込みがいまだに改まらない主要国サミットの流れです。そしてここでは重大な問題提起をしておかなければなりません。この二つの流れの相克は、社会に存在するだけではなく、われわれの心の中にさえある可能性があります。自分は良識的流れの中にいると考えている人々でさえ、「どうやら不況からの回復の兆しが見えてきた。GDPの伸びがプラス何%かになった。企業投資ばかりでなく、国民消費も上向いてきた」などという報道に接すると、みんな心が明るくなっているのではありませんか。好況はたしかにいまのわれわれの心を明るくはするが、うっかりすると、子孫の世代の幸福に影を落とす心配を含んでいることを思わないわけにはいきません。



<経済的には、政治的には> 第1章で述べた「成長の限界」は、1972年に、「文明の寿命はあと100年で尽きる」としました。おそらくは「究極の人権社会」の確立は、22世紀のことになるのかも知れません。だが気候変動問題(地球温暖化問題)の成り行きから推測しても、少なくとも21世紀の半ばには、その確立の見通しを実感できるのでなければ手遅れになる可能性はあります。すでに21世紀に突入しているわれわれに、残された時間の余裕は、せいぜいあと半世紀と考えるべきでしょう。それならば、SS確立への努力が、経済的には自由主義経済体制下で、政治的には「民主主義体制」下で行われる以外にはないことは明らかです。このことは確認しておく必要があります。



<10月、SS集会2004> この結びの章には、容易に解を見いだしがたい地球的問題群に関する矛盾のいくつかに触れてきました。どう理解すればよいのか、判断に苦しむような矛盾は、まだまだほかにもたくさんあります。10月、「永続可能な社会をつくる市民・研究交流集会2004」に集まって、みんなで学び、考え、議論しましょう。われわれ自身と、子孫の幸福のために。

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