*** コラム:戦後日本社会の略年史 ***
この表は「環境と開発、環境思想の観点から見た戦後日本社会の略年史」である。1945年からの戦後を10年ごとに区切り、それぞれの時期の特徴を略記した。ただし次第に進む環境問題のグローバル化に対応して、必要最小限の世界の状況を織り込んである。
◆第1期(1945〜1955)戦後混迷期◆
・窮乏・貧困の時代、前半は「絶対的貧困」状態。
・朝鮮戦争1950年〜51年(休戦の完全な合意は53年。日本列島は、国連軍の名においてアメリカが朝鮮半島で行った軍事行動の後方補給基地となる。皮肉にも、これが日本経済立ち直りの契機となった。
・国民の環境への関心は「食うのに精一杯、環境どころではない」という感じであった。
◆第2期(1955〜1965)高度成長時代前期◆
・生産基盤の整備期。工場用地のための海岸線埋め立てブーム。この期前半、大阪湾北半の海水浴場が、みるみるうちに消滅した。
・経済自立5カ年計画(1955)、所得倍増計画(1960)。東京オリンピック(1964)、東海道新幹線開業(1964)。
・56年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言したが、成長の果実は企業にまわり、国民生活に「豊かさ」の実感は乏しかった。憧れの三種の神器、「白黒テレビ」、「電気冷蔵庫」、「電気洗濯器」。
・この期の後半、すでに環境問題発生の兆候は顕著(1959年、四日市コンビナートの操業開始)であるものの、総じて国民の環境への関心は空白のままつづく。
・1962年、レーチェル・カーソン「沈黙の春。低濃度化学汚染の地球的蔓延。」
◆第3期(1965〜1975)高度成長時代後期=「公害の時代」◆
・生産伸長期。同時に「公害事件噴出の時代」。
・国民生活の物質的豊かさは徐々に実現し、日本は「北」の国々の仲間入りを果たす。国民総生産(GNP)では、1969年、アメリカに次ぐ世界第2位となる。この時代の三種の神器は、「自動車」、「クーラー」、「カラーテレビ」の3C。
・国民の環境思想高揚、公害反対運動激化、自治体や国の環境政策は前進。東京に「革新自治体」出現、公害対策基本法(1967)が制定される。
・1972年、スウェーデン・ストックホルムで、初めての国連環境会議開く。同じ年、ローマクラブの報告「成長の限界」公表。
・四日市公害裁判判決(津地裁、1972)。原告の全面勝訴、環境を介する人権侵害が認定される。
◆第4期(1975〜1985)低成長安定期◆
・1973年末の第一次石油ショック以降、日本経済の高度成長に終止符が打たれた。
・「公害現象」は減少、しかし有害因子の潜在・広域化がじわりと進む。
・精神的豊かさ、いわゆるアメニティ(生活の快適さ)の希求時代。
・OECD報告「日本の環境政策」(1977)、「日本は公害の危機を克服した」と。
・環境政策の後退露骨、[例]二酸化窒素の大気環境基準緩和(1978)。
・環境思想退潮。次第に「公害反対」運動の核だけが燃える状態に。「革新自治体」と呼ばれた「反公害自治体」は、軒並み崩壊する。
・「公害」ではなく「環境」とくに「地球環境」を語ることは、運動のなかではタブーであった時期も。
◆第5期(1985〜1995)バブル経済の出現とその崩壊◆
・この期の前半、株価、地価の高騰を背景に未曾有の「金余り時代」。後半に入った90年、株価暴落とともに、やがて異常な好景気経済の終息。バブル景気と呼ばれた時期は1986.11〜1991.2である。
・バブル期、「公害」の再来が懸念されたが、その終息とともに、小康状態。
・東西冷戦の終結ベルリンの壁崩壊1989年、ソ連邦崩壊1991年。
・オゾン層の破壊が現実となり、フロン規制問題を皮切りに、地球環境問題への関心が生まれる。
・1987年フロンの国際規制のための「モントリオール議定書。」
・1988年IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の設立。
・1990年日本でもアースデイへ連帯する行動がようやく生まれる(アース・デイ運動の始まりは、1970年、アメリカで。)
・1992年「リオ会議」に際して、各国は気候変動枠組み条約に調印する。
・1993年、公害対策基本法(1978年)は、環境基本法に変わる。
◆第6期(1995〜2005)バブル後、経済の長期低迷◆
・日本経済は、バブル崩壊の後遺症大きく、容易には立ち直れず。
・地域的な環境の小康状態はつづいていると見てよい。
・反面気候変動条約のCOP群(京都会議1997年を含む)、「ヨハネスブルグ会議」(2004年)の報道などを通して、地球環境問題への関心、さらには「永続可能な社会」への関心高まる。
(林)
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